便宜上の恋人


「何も考えられない時間をあげます。だから、俺に貴方をください、牙琉検事。」
 口説き文句はそんな感じだったと思う。


 便宜上の恋人


「あれ、なんですか?」
 みぬきの言葉に、王泥喜から返事はない。それどころじゃない。折角ここまで数えたのに…。
「二十三、十四…あれ、四だって五だっけ…。」
 結局いらぬ邪念が入ったせいで、書類の数字は吹っ飛んだ。ガックリと垂れ下がる触覚を見ても、慣れてしまったみぬきの気を引くことは出来ない。
「だから、アレなんでしょう?」
 今度はくいくいと袖を引かれ、それでも王泥喜は抵抗を試みた。
「これ、次の審議でいるんだけど…。」
「次は次ですよ。今此処にある現実から目を反らさないで下さい。」
 腰に手を当てて、人差し指を振ってみせる少女に王泥喜は溜息をつく。

いや、だから審議で必要な書類を調べるのも『確かな現実』だろ?

 しかし、何をどう言ったところで、少女にとってそれはだたの言い訳に過ぎないらしく、可愛らしい頬を膨らませたまま、みぬきは王泥喜の背後を指さした。
 つられて視線を移した王泥喜も目を見開く。
「…何だあれ。」
「だから、みぬきがそう言ってるじゃないですか!」
 
 控え室の前に人だかりが出来ていた。此処の関係者達なのだろう。事務服の女性達が多い。覗き込んでいるのが若い娘ばかりだったから…という訳でもないのだが。本来の職務を棚に上げ、王泥喜は彼女達の後ろからその扉を覗き込む。
「あの〜何かあったんですか?」
 躊躇いがちに掛けた言葉は、彼女らの甲高い声にかき消された。いや、寧ろ相手にされなかった。むと顔を顰めた王泥喜は、肺に目一杯の空気を吸い込むと、思いきりよく口から出した。

「何かあったんですか!!」

 朝の発声練習もかくやという大音量で話し掛ければ、一瞬すべての声は途切れ、隣の女性は両耳を塞いだ。鬱陶しげに、王泥喜を振り返る。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえてるわよ!」
 嘘付け返事をしなかったくせに。腹の中で黒い事を考えながら、もう一度問い掛けようと王泥喜は自分を呼ぶ声に気が付いた。
「こっちです。王泥喜さん!」
「へ?」
 いつの間にか、扉の内側にいたみぬきが、王泥喜を手招きした。
 流石魔術師。いつの間に…。
「早く!早く!」
 即されるまま、お嬢さん方の怪訝な眼差しを背中に受けて入った室内で、王泥喜は息を飲んだ。

「牙琉検事…。」

 長椅子の肘掛けにその長い脚をのせて横になっていたのは、牙琉検事だった。上着を掛け布団の変わりのように上半身に掛けて、深く沈み込んでいる。
 右手で額を抑えていたが、王泥喜の声に指を外し顔を向けた。

「ああ、おデコくんか…。」
 苦く笑う端正な貌。こんな顔色で笑う必要なんかないだろうと、王泥喜は思う。
 書類を横のテーブルに置き、王泥喜は彼の顔を覗き込んだ。目の下の隈、唇にも殆ど色は無い。普段なら子供みたいに綺麗な瞳は、充血している。
「ちょっと目眩がして…さ。疲労だろうって、体力には自信あったんだけどな。」
 また、笑う。王泥喜は苛つく気分そのままに、言葉を吐いた。
「一体どんな根拠があって、体力に自信があるんとか言ってるんですか?」
 証拠をみせて下さい、証拠を。王泥喜はそう言葉を続ける。
「酷い事言うなぁ、おデコくんは。」
 少しだけ顰めた顔が、今の状態には相応しく思えて王泥喜は胸に湧いた不快感を緩和する。

 畳み掛けるように起こった事件に、牙琉検事は最後まで崩れなかった。
 己のすべきことを優先し、友人に対する怒りも兄に対する後悔も腹に収めたまま、以前と変わらず笑っていた。
 全てを清算し、割り切っている。さすが、クールを売り物にした男だと世間は思ったのかもしれない。
 けれど、王泥喜はそれが事実ではない事を知っている。望んだ訳ではなかったが、己の腕輪が如実にそれを伝え来ていた。些細な言葉や言動に、彼は常に反応をしめし、そんな状態では心安まるはずがない。
 王泥喜の懸念通り、つまり牙琉検事は相当まいっているという事だ。

「ちゃんと御飯食べてます?」
「みぬきも白い御飯食べてません。」
 響也に対する問い掛けに、みぬきが横から声を掛ける。冗談じゃなく本気なところが悲しい。そう言えば、昨日の夕食も袋麺だった。
「あ、これ。もらったんだけど、食べるかい?」
 思い出したように、牙琉検事がポケットから取りだしたのは、ファミレスのチェーン店で使える無料券。ガリューウェーヴのプラチナチケットを手にするよりも、みぬきちゃんの顔は輝いているに違いない。
「ありがとうございます。うわ、見てください王泥喜さん!二人まで無料でご招待だそうですよ。早速行きましょう!」
 みぬきちゃんの余りの鼻息に、『衣食足りて礼節を知る』なんて格言を思い出す。
「お嬢さんにそこまで喜んでもらえると本望だよ。」
 未だに、横になったままで牙琉検事は気障な台詞を吐いて笑う。王泥喜は自分の腹に、再び鬱屈したものが蓄積されていくのを自覚した。
 だから、どうしてこの男は…。

「…俺は行かないよ。」
「え、どうしてですか。だったら、王泥喜さんは、この『二人まで』を無駄にするって言うんですか!? 勿体ないお化けが出ますよ!」
「ひとりが勿体ないのなら、成歩堂さんと一緒に行けばいい。」
 一瞬みぬきちゃんの目が点になる。同じ食卓を囲んでいた家族なのに、彼女はすっかり父親の事を忘れていたらしい。
「パパですか、一日一膳なんて言ってましたけど、まぁ、誘ってみることにしますね。王泥喜さん本当にいいんですか?」
「…いや、だから、俺はこれから審議があるんだって。」
「…そうでした。」
 これまたすっかり抜けおちていた真実に、みぬきはやっと納得した。
 スキップをして、扉から普通に出ていく魔術師を見送ってから、王泥喜は牙琉検事を振り返る。
 気まずそうな表情で上着を顔へと持ち上げるのを、王泥喜は手で制した。
「質問に答えて貰ってないですよ、牙琉検事。」
「その様子だと、夜も眠れてないんでしょ?」
 応えはない。でも、それは言葉でのこと。腕輪は反応を続けている。
「あの、さ。どうして、君にはわかってしまうんだい?」
 ぼそりと呟いた言葉。どう答えようかと思案する王泥喜は、響也の表情に息を飲む。
「…こんな酷い顔、おデコくんになんて見られたくないのにな…。」
 追い詰められたような、それでいて、その事に安堵しているような、鳩尾の辺りが締め付けられるような表情。きっと、自分がどんな顔してるのか、なんて少しも気付いていないんだ、この男は。

「そうですか?」
 嗚呼、もう止まらないな。脳味噌の隅っこで思う。
「寧ろ、そんな顔、他の人に見せたくないです。」
「お…デコく…?」
「俺にだけ、見せて下さい。」
 相手は病人。なるべく体重を掛けないように気を付けながら、牙琉検事の身体に乗り上げる。片手を背もたれに、もう一方を肩上で肘をつく。
 瞬きを忘れた瞳の横に、見せつける為に口付けを落とすと、色を失っていた頬が、僅かに紅潮した。
 
「辛いなら忘れろなんて言いません。そんな事は無理だと思います。でも、苦しんでいる貴方を、そのままになんて俺には出来ない。…貴方が好きだから。」
 
 王泥喜は思う。弱っている得物を狙う、自分はまるでハイエナだ。
けれど、それでも構わないと自分の中から答えが返る。こんな綺麗な得物を掴まえるのに、手段なんて選べる訳がない。
 
「何も考えられない時間をあげます。だから、俺に貴方をください、牙琉検事。俺の事を好きでなってくれなくても、かまいませんから…。」

「……とても魅力的なお誘いだけど、僕はそんなに安くない。」

 一瞬鋭くなる眼差しが、悔しいけれど格好いい。どんなに弱っていても、容易い狩りなど許してくれる相手じゃない。
 
「じゃあ、こうしましょう。ひとりじゃあ心配なんで、家まで送りますよ。俺の審議が終わるまで待ってて下さい。
 これなら、いいでしょ?」
「オイオイ、おデコくん。僕の仕事はどうなるんだい?」
「仕事が出来るくらい元気だったら、今、此処で襲います。」
 至極真面目に返してやると、牙琉検事は吹き出した。オーケイと笑う。
 王泥喜は自分が羽織っていた上着を脱ぎ、牙琉検事の上に重ねた。取りに来るから此処にいろ。逃げるなよ。要するに駄目押しという奴だ。
「おデコくんに信用がないんだなぁ。僕は信頼関係があると思っていたの…。」
 そこで声が途切れたのは、王泥喜が響也に再び口付けを落としたせい。
「な…。」
「関係は便宜上の恋人ですから。」
 にっこり笑ってそう答えると、途端、飛んできたのは罵声だった。

〜fin


…王泥喜くん、黒くない…か?(汗)


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